常識をぶち壊せ!特撮の神様 ウルトラマンを作った円谷英二に学ぶ

雑記

2021年 夏 シン・ウルトラマンが公開予定!

Photo by Lloyd Dirks on Unsplash

あの大人気作品「ヱヴァンゲリヲン」を作った庵野秀明さんやその制作陣が
2021年 夏に新たにシン・ウルトラマンを公開予定なんだそうです!


庵野秀明さんは2016年に公開された「シン・ゴジラ」も制作しています。
「シン・ゴジラ」は大ヒットを記録し第40回日本アカデミー賞では最優秀作品賞を受賞もしているので今回の「シン・ウルトラマン」も期待せずにはいられませんよね!



シン・ウルトラマンの公式ホームページは以下からどうぞ!

映画『シン・ウルトラマン』公式サイト
『シン・ゴジラ』の製作陣が、あの“ウルトラマン”を描く。混迷の時代に生きるすべての日本人に贈る、エンターテインメント超大作。2022年5月13日(金)全国公開。


30代になる私は子供のころウルトラマンが大好きでした。
多分私と同世代の方々も基本的にウルトラマンは好きですよね!

しかしよくよく考えてみると今ってウルトラマンはテレビでやっていないので
若い人達は知らないのではないでしょうか



今回は元祖ウルトラマンを作った
円谷英二について
記載していこうと思います。



30代ぐらいの方々も円谷英二は名前は分かるけど
どんな人物でどうやってウルトラマンが誕生したのか
分からない方も多いかと思いますので是非以下をご覧ください!



円谷英二は何度も壁にぶち当たりどん底に突き落とされていますが
不屈の闘志でそれを乗り越え、「ウルトラマン」を作っているのです。


今回はそんな円谷英二の成功と挫折に焦点を絞って記載しました。
ではいきましょー!

第一の夢と壁 飛行機乗りを目指す

1916年 16歳だった円谷英二は家族が大反対する中操縦士を夢見て
日本飛行学校に入学します。

入学金は新築の家が二軒建てられるほどだったそうですが
叔父が工面してくれて入学できたそうです。

しかし1機しかない飛行機が墜落、またこの事故により唯一の教官も死亡したことにより
学校は活動を停止せざるをえない状態に陥りました。

これにより半強制的に退学となり夢破れました

第二の壁 ひょんなことから映画界へ

Image by Free-Photos from Pixabay

18歳の時花見をしていたところ、引き連れてきた人たちと臨席の人たちが喧嘩をはじめました 笑

円谷が仲裁したところ、この臨席の人が映画関係者で円谷のことを認めたため
映画界に入ることになったそう


なんともすごい出会いですね 笑

まずはカメラマンの助手から始まったんだそうです。

1920年に飛行機での空中撮影があったのですが、怖くて誰もしたがらなかったところ
操縦士を目指していた円谷が名乗り出て見事撮影をやり遂げました。

これにより助手でなくカメラマンに昇進しました。

1927年~1931年までに円谷は

「オーバーラップ」
「アイリス・イン」
「アイリス・アウト」
「フェイド・イン」
「フェイド・アウト」
など特殊な撮影技法を使用したり

ミニチュアセットを使ったり

画面を合成したり

特撮技術の先駆けのようなことを行っています。


しかし当時の他のカメラマンたちにはこの行為が理解できなかったため「ズボラヤ」と呼ばれ
からかわれたんだそうです。


さらにこの撮影手法を用いて時代劇を撮影したところ
歌舞伎俳優の白塗りの顔をくっきり映せていない
として社内から反発された
んだそうです。


当時はリアリティさは無視してどんな時でも
歌舞伎俳優の白塗りの顔をくっきり映さないといけないというルールがあり
円谷の撮影手法はタブーだったんだそうです。

今となっては訳の分からないルールですね…


1933年、32歳のとき
映画「キング・コング」が日本で公開されます。

円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを1コマ1コマ分析して研究したそうです。

1934年には当時のスターにローキー照明を当て影を作ったことで幹部と対立し所属していた会社を退社することになったそうです。
ローキー照明は以下の画像のような影と光が混在しているような照明の当て方です。

Photo by Brandon Nickerson from Pexels

からかわれようが当時タブーだろうが一貫して自分のこだわる撮影技法をやり続けるという
この精神は見習いたいですね!!


タブーだろうがなんだろうが分かる人にはわかったようで

退社したその年に映画プロデューサーであった大沢善夫という方に注目され

大沢善夫の誘いにより東宝の前身である「JOトーキー」という映画会社に就職したそうです。

第三の壁 太平洋戦争

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太平洋戦争に入る前の1937年も壁にぶち当たります。

円谷の撮影技法があまりに先進的すぎたため他のカメラマンが
「円谷をカメラマンとして認めるわけにいかない」
として理不尽な反発を受けていたそうです。

これにより特殊技術課というのを設立し
円谷は一人でこの課に所属したんだそう。

なかなか厳しい当りですね…。

そんななかでも
1940年 初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影したそうで
世間の目を気にすることなく着々と特殊撮影のスキルをためていきました。

1941年 ついに太平洋戦争に突入します。

これにより円谷が所属する東宝は
戦意高揚映画を製作することになります。

戦意高揚映画とはその名の通り
国民に対して戦争をすることへのモチベーションを
上げさせようとする映画のことです。

このため特殊撮影の需要が高まり
円谷は戦争映画全てを担当していくことになります。

1942年には「ハワイ・マレー沖海戦」という映画が公開され大ヒット。

撮影中は皇族や著名人が見学に押し寄せたほどだということで
当時特撮の人気が非常に高まっていたことが伺えますね。

1943年には円谷の特殊撮影スタッフに対し
松竹映画が引き抜きを図ったそうで10名ほどが松竹へ移籍してしまったため
東宝の特技課は大打撃を受けたんだそう。

以前ディズニーの記事でも引き抜きについて書いた通り
日本でもアメリカでもどこでも引き抜きは起きているみたいですね。
ディズニーのまとめは以下からどうぞ!

それでも1944年、1945年は7作品の映画の特撮を担当し特撮のスキルをどんどん溜めていきます。

1945年8月1日に召集令状を受け軍に入隊しますが8月15日に日本は敗戦したためすぐに除隊となりました。


1946年には8本の映画の特撮担当になり順調に映画製作を行っていきましたが
1948年、円谷は公職追放に指定され公的な立場での仕事を続けることが出来なくなります。

公職追放って聞きなれない単語ですよね。

これはつまり太平洋戦争で「日本国民を欺いて世界征服を乗り出す過ちを犯させた勢力」として
円谷が認定されたということです。

戦意高揚映画を製作していたことがこの理由になりました。


これにより東宝の特殊技術課は解散、円谷は失職します
困窮の極みとなったそうです…。

無職になった円谷は自宅の庭にプレハブを建て「円谷特殊技術研究所」を設立します。
フリーランスとして数々の特撮技術パートを担当したようです。

成功の連続 ウルトラマン制作へ

Photo by Fab Lentz on Unsplash

一次は失職にどん底を味わった円谷でしたが、めげずに
数々の映画や予告編の撮影に携わり「円谷特殊技術研究所」は少しずつ大きくなっていきます。

1950年には「円谷特殊技術研究所」を東宝撮影所内の6畳ほどの場所に移設します。
1952年 円谷が51歳の時には東宝スタジオ内の小さな建物に円谷研究所として施設が移されました。
更にこの年に「公職追放」を解除されました。

これにより円谷は東宝に復帰することができたのです。

ゴジラを製作

1954年 田中友幸プロデューサーによって「ゴジラ」が制作されます。
円谷は特撮班を編成してゴジラの制作に携わりました。

1954年11月3日に公開された「ゴジラ」は空前の大ヒットを起こします。
あまりにも有名になったため日本映画としては初の全米公開作となり海外でも有名になったそうです!

1955年 ゴジラの逆襲を製作し、その後も
「モスラ」「キングコング対ゴジラ」などの有名な作品を数々制作していきます。

そして1963年 62歳にして「株式会社円谷特技プロダクション」を設立。
映画で大成功を収めていた円谷はテレビで特撮を撮るという事に挑戦します。

1966年 「株式会社円谷特技プロダクション」を設立して3年後に
1年かけて映画並みの製作費と体制で制作したテレビ特撮番組「ウルトラQ」がTBSで放映開始します。
言うまでもないですがこの番組が大ヒット「怪獣ブーム」を巻き起こしました



これにより円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾として制作されたのが「ウルトラマン」だったのです。

ウルトラマンによりさらに怪獣ブームは加速し円谷英二は全国的に知られるようになりました。
特撮の神様が誕生した瞬間です。

おわりに

いかがでしたでしょうか?

円谷英二さんはどんな壁にぶち当たろうとも
一貫して特撮を行っていき
大成功を収めていきました。

歌舞伎役者の顔に影を映すなど当時のルールを

ぶち壊して他から理不尽な仕打ちも受けていましたが

信念を貫いていたのがとても印象的ですね。

参考元:wikipedia

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